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当店は被災者で運営する「非常持ち出し袋」販売専門店です。専門家は日本列島は地震の活動期に入っていると警告しています。ぜひ早めに地震の備えをされることをお薦め致します。

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生きている日を大切に(16歳 高校1年 女)

あの瞬間は、本当に何が何んだかわかりませんでした。死にたくないと、思い切り叫びました。ガラスが割れて、本棚が倒れてきました。お母さんの声が聞こえて、それっきり静かになりました。お母さんは、すぐに私の部屋の入り口まできました。私は自力で本棚を抜け出して、お母さん達と一緒に外へ出ました。

近所の人達は、みんなグラウンドでうろたえていました。家の中に埋まったままの人もいて、男の人達は何とか掘り出そうと必死でした。私は、何も出来ない自分をさびしく思いました。私には、それだけの力はありません。私やお母さん達は家の中を片付けに入りました。

あっという間に夕方になりました。熱いみそ汁を飲みました。空っぽの胃の中に広がるみその味は格別でした。6時になると、みんなは集会所へ入りました。それからは10分、20分がなかなか過ぎなくて、私は近所の幼友達二人とずっと歌っていました。

懐中電灯は電池がなくなるといけないので、消したままでした。日中働き詰めた大人の人達は、みんな先に眠ってしまいました。私は怖かったけれど、友達と笑っているうちに少し気持ちが明るくなりました。

次の日の明け方、突然避難勧告が出ました。私達は、毛布をまとって、山の方向を向いて歩きました。やっと辿り着いた所は、野寄公園でした。私は熱が出て、幼友達と一緒に毛布にくるまって寝ていました。公園に身体を横たえるなんて初めてでした。

私は、名前も何も持たない人間になったように感じました。足先が氷のように冷たくて、靴を脱いでマフラー等を巻き付けました。
私達がそうしている間に、お母さん達や他の大人は、風よけ程度のテントを作ってくれました。私と友達は、その中で一日中何も出来ませんでした。

サイレンの音が、ずっと聞こえていました。耳が痛くて、怖くて、聞きたくありませんでした。早く普通の暮らしに戻りたいと思いました。
食料はアンパン等でしたが、数が足りませんでした。私はアンパンが少しの間食べられなくて、ポケットに入れておきました。

夜になって、私は自分の家族や、友達の家族と一緒に、一晩中火の傍にいました。ポケットに入れておいたアンパンを食べると、石けんの味がしました。ポケットに石けんを入れていたからです。私は、みんなが生きていてくれて、本当に幸せです。自分を支えてくれる家族や友達がいるから、落ち込まずに頑張れるのだと思います。

それから数日後、私達は元の家へ帰っていました。水もガスも出ませんでしたが、電気だけはつきました。私は真っ黒な夜が怖かったので、飛び上がる程うれしかったです。洗たく物がたまってきたら、住吉川へいきました。冷たい水に足を浸すと、血管がズキズキして凍りつきそうでした。でもその日は天気が良くて、仕事に慣れてくると楽しくなりました。

水運びも、お風呂で何時間も並ぶことも嫌でなくなりました。私は生きているから、地震で亡くなった人達とは比べられない程幸せです。私の同級生も、3人死んでしまいました。そのうち2人は私の友達でした。私は今でも実感が湧きません。どうして今まで生きて、一緒に勉強して、やっと高校生になれたのに、何のために悩んで苦しんで受験を受けたのでしょうか。仲良くなって、その人を好きになっても、別れなくてはいけないのなら、どうして友達になったのでしょうか。

私はこれからも生きてゆくことができます。生きて、自分次第で精一杯人生を満喫できます。死ぬことは本当に怖いけれど、生きていれば、どんなことでも切り抜けてゆけると思います。

せっかく自分として生まれてきたのだから、いじけてばかりではつまらないとおもいます。わり込みをしたり、働かずに避難所巡りをしたり、お互いにいがみ合ったり、そういうことはいじけたつまらないことだと思います。人間の姿は、こんな時にさらけ出されてしまうのだと思います。

そんな人のいる半面、雨の日、傘もささずに歩いていた私に、自分の身につけていた傘と手袋をくれた人もいました。

私は、人間は醜い欲望の塊ではないのだと思い、感動で胸がいっぱいになりました。私はあの人を見習って、一生懸命生きてゆく中でも、他人を思いやることのできる人間になれるように努力していきたいです。そしてできる限り明るく、今を大切に生きていきたいです。

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