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あの大地震でぼくは(14歳 中学2年 男)

1月17日5時46分、ぼくにとって、いや、この阪神一円に住んでいる人にとって、一生忘れられない、あのかつてない大地震が熟睡していたぼくたちを直撃した瞬間だった。

あの瞬間ぼくは、パッと目が覚めた。家中の窓や障子、ふすまが破れんばかりの音を出している中で、そして次の瞬間、ぼくが寝ていたベッドがまるで荒れくるった波の中でただひたすら流れにまかせる小舟のように激しく揺れ出した。蛍光灯やグラス、食器が「バリバリ」と、とにかくすごい音を出しながら強く地面に打ちつけられ、水槽もあまりの揺れでサイドボードからとび出し、棚と衝突したらしくガラスが割れ、中にいる十数ひきの金魚や鯉が音を立てながら必死に跳ねていた。

突然のできごとに、普段から地震の時は、座布団でもなんでもいいから頭だけは守れと言われてきたが、ぼくは身動きひとつできずに、ただ呆然とベッドに横たわっていた。揺れが一段おさまってから、ぼくはパジャマのままで、裸足でガラスや金魚があるかどうかもわからないまま、妹と両親の部屋に行こうとひたすら思っていて、まさに理性を失ったパニック状態だった。地面は水槽の水でぬれていて、冷たかった。両親と会ってからも眼鏡がないとほとんど見えないので、両親に「眼鏡を捜して」とばかり言っていた。

この時、一番落ち着いていたのは父さんでした。父さんはまず、ガラスが割れているのでスリッパがないと危ないと言った。それから懐中電灯と眼鏡だ。そして、スリッパをはいて、母さんは懐中電灯を探し出したが、ガラスで少し足を切った。ぼくも父さんに「さっき裸足で歩いていたから、足切ってないか」ときかれたが、幸い足の裏は奇跡的に無傷で、母さんと同じくすねを少し切ったぐらいですんだ。

しかし、なぜか妹がいない。母さんが声をかけると、妹はタンスが倒れて、身動きができないが、幸い怪我はなかった。眼鏡は確かケースに入れてなかった。半ばあきらめていたが、こっちも奇跡的に無傷だった。

6時ぐらいになると、ようやくお日様はいつもどおりのぼってきた。家の中はめちゃくちゃだった。重そうに見えたタンスやサイドボード、テーブルなどは倒れているのもあれば10数センチも動いたのもあった。1回も使ったことのない食器やグラスなどが棚から落ち2センチぐらい積もっていた。本とかも本棚から落ち、散乱していた。台所は調味料がおちていたもののごま油以外は割れなかった。

午後5時ぐらいには電気が来た。電子レンジや電気炊飯器は棚から落ちたが、幸い こわれていなかったおかげで温かいご飯とおかずを食べることができた。テレビも見ることができて、本当に心強かった。夜中に隣の棟のポートビレッジに火事が起こったが、すぐに消してもらえた。こうして、ぼくの1月17日は終わった。

あの日から57日の今日3月15日までに、ぼくは、この地震がなかったら、体験できないいろんなことを体験してきた。

まず、この阪神大震災によって、父さんを尊敬できた。こんな大地震でも落ち着いていて、そして、揺れがおさまった後すぐに浴槽に半分ぐらい水をためたおかげで、どれだけ、助かっただろうか。ふだんは、頑固で、あんまりぼくや妹をかまわないが、初めて、父さんはたよりになるなあ、と思った。

そして、何時間も並んでやっともらえた食料品、このポートアイランドを歩き回っての水探し、水運び、三宮から5キロの米をかついでかえった買い出しで、水のありがたさや食べ物の貴重さが身にしみるほど分かった。

ぼくが2年間ぐらい飼ってきた金魚は半分以上死んだ。犬みたいに人になついたり、遊んだりすることはできないが、なにか家族のようなきずなでつながっていたと思う。水がなくて死んだ金魚もいれば、暗い時に家族にふまれたり、重い物につぶされたりで、無残な遺体を見た時には、涙がでるぐらい、心が引きさかれた。

この阪神大震災によって一番大切に思ったものは何かと聞かれると、ぼくは絶対「家族」と答える。
トイレが使えなくて、仮設トイレで仕方なく用をすますのは、むちゃくちゃつらいけど、ぼくがこの体験記を書くため、わざわざ夜中の1時半まで待ってくれた母さんがいなければ、ぼくもここまでがんばれなかったと思う。最後に、ありがとう、お母さん。

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